19世紀末の芸術に魅了されすぎたら世界が広がった☆the decadence☆vol.15 【新しいファッション編】

新しいファッション編

皆さん、こんにちは。
先日、半蔵門にある「日本カメラ美術館」に行ってきました。
19世紀半ばから現代に至るまでの様々なカメラが展示されていました。
欲しい!と思う魅力的なカメラが複数ありましたが、一方で、印象的だった点が2つありました。

ひとつは、カメラの原型は原始時代に存在していた、ということです。
もうひとつは、戦時中のカメラ。
戦闘機の銃にカメラが取り付けられており、敵が墜落するとその記録を帳簿に記録していたそうです。
楽しく使われるはずのカメラが凶器に装備されていたことを実物を見たことで実感し、何とも言えない気分になりました。
カメラは1839年に初めて市販され、改良が繰り返され、19世紀末までにはカメラはより身近なものになりました。
カメラの発明は、西洋の科学者らによって実現しましたが、イギリスの科学者も多く関わっていたそうです。

画像引用元:https://camerafan.jp/cc.php?i=413
ロビンソン&サン社(1885年)

ヴィクトリア朝時代初期イギリスの淑女の生活

カメラが初めて市場に出た1839年は、ちょうどヴィクトリア朝時代初期にあたり、イギリスの淑女は社会の厳しい規範に従いながら生活を送っていました。
彼女らの生活は主に家庭内が拠点となっており、音楽や読書などの趣味・教養を身に付けることがあるべき姿でした。

教養と言っても、家の主以上の知識を持つことはタブー。
ましてや趣味が転じて職業とすること、または職業を持つこと自体が淑女にあるまじきことでした。
家の主の話についていける程度の教養、つまり、主の話に耳を傾け、「うんうん」と相槌を打ちながら、「そこもうちょっと教えて」と主を立てることができるレベルが理想とされたのです。
とはいえ、ひょっとしたら、中には好奇心からどんどん知識を得ていた淑女もいたかもしれませんね。
家庭内以外には、同じ階級の淑女らとの社交場としてデパート、ティーサロン、教会が主な外出先とされました。
「外で異性に見られる」=「娼婦」とみなされたため、移動は常に馬車でした。
今では当たり前のちょっとコンビニに行くような感覚は、は淑女にとっては遠い世界のことでした。

ヴィクトリア朝時代初期イギリスの淑女のファッション

お洒落に関しては、化粧品はタブー。
コルセットやクリノリンを装着した過剰装飾なドレスが規律とされていましたが、ヴィクトリア朝初期の頃のドレスにはさらに厳しい規制が設けられていました。


「肌を見せてはいけない!!」これが規律でしたが、ここでいう「肌」とは、「首」が付く箇所、つまり「手首」「足首」「首元」を表します。
襟元は今でいうスタンドカラーのように首をすべて覆い、スカートの丈は床すれすれ。
そのため、淑女は床に落ちている塵やゴミを吸い取って歩く掃除機のようでした。
下記のファッションプレートは以前にも記載させていただきましたが、中3人のようなファッションが当時の規律に従ったデザインです。
3人とも顔以外の肌部分はすべて服や装飾品で隠していますね。
手元にグローブを纏っているのも特徴的です。

淑女の新しいファッションと「新しい女の子」

1850年代には、金属製のクノリンの発明によって軽量化が図られ、淑女らは身動きがそれまでより楽になりました。
同時に、機械化による大量生産によってドレスのスカートの装飾がさらに過剰に、ボリューミーになりました。
便利性を追求したクノリンの発明が、逆に社交の場での不便さだけでなく相次いで事故を起こす原因となったため、1860年代にはイギリス国内でクリノリン廃止運動が始まりました。

その後、服装改革運動が様々な観点から行われ、最終的に私たちが着ている現代的な服装へと繋がっていきますが、いちはやく1860年代に、より現代的なファッションを好む淑女が現れました。
いわゆる’it girl’といった存在です。
’it girl’は、2000年代のファッション誌でもよく見られる言葉ですが、元々は1900年頃、イギリスで生まれた言葉です。
「性的アピールと人目を引く魅力的な個性がある魅力的な若い女の子。ファッションリーダー的存在」
といった意味で用いられますが、まさにそういった女の子が1860年代のイギリスで見られるようになりました。

彼女らは、髪を染め、化粧をし、装飾過剰で丈の短いスカートを履いていました。
「丈の短いスカート」といっても、足首が見える程度のもので、今の時代ならロングスカートです。
足首が見えるため、靴にもよりお洒落を求めるようになり、特にハイヒールブーツが流行しました。
私たち現代人には特に違和感を感じるファッションではありませんが、当時の伝統を重んじる者にとっては、「まったく、今どきの若者は…」といったスタイルだったようです。
さらに、彼女らの外見は「娼婦」とまで言われる有様でした。
化粧や髪を染めるといったお洒落は「堕ちた女」や、労働者階級出身の「女優」が兼ねることもあった「娼婦」のものでした。


「淑女らしさ」とはかけ離れた、異性の目を引いてなんぼ、自由で享楽的な、新しい時代の淑女、つまり「新しい女の子」の誕生がここにありました。
もはや「貞淑」「淑女の規範」は時代遅れになり、時代は「新しい女の子」をファッションリーダー的存在としながら移り変わっていきました。

画像引用元:http://historyofboots.blogspot.com/2009/06/nineteenth-century-boots.html

また、同時期、もうひとつのファッションリーダー的存在である「モデル」が誕生しました。
今で言うカリスマショップ店員がモデルの役割を担っていたようです。
パリのデザイナーでイギリス出身のフレデリック・ウォルトが「オート・クチュール」を生み出し、上流階級の人々を魅了しました。
ウォルトは、店の売り子に彼の制作した服を着用させることによって、店舗の中で動くマネキンなる「モデル」によるファッションショーを常に開催していたようなイメージですね。
パリの店舗にはイギリス人も顧客として通い、「オート・クチュール」という新しいファッションの在り方が示されました。

このように、「新しい女の子」や店舗の「モデル」をファッションリーダー的存在としながら、ファッションの在り方が変化し始めました。
1860年代末頃にはクリノリンは廃れましたが、コルセットの時代はまだまだ続いていきました。
コルセットを女性から解放したのはは20世紀初頭、フランスのデザイナーであるポール・ポワレでした。
コルセットの廃止運動はイギリス国内で19世紀後半に盛んになっていきましたがコルセットはまだまだ「マスト」。
ファッションの発信地であるパリで、ポワレによって、コルセット不要のデザインの服が流行したことで、パリの女性たちがコルセットを脱ぎ捨てて、ようやくイギリスの女性もコルセットから脱却できました。
‘no corset, no life’ はもう古い、といった「コルセットのない新しいファッション」がここに誕生し、その後、Coco Chanelが ‘no more corset’ なるモダン・ファッションを確立していくことになりました。

19世紀末のファッションの変遷はこのように様々な要因が絡んでいますが、これで終わりではありません‼
19世紀後半には、別の場所で、全く違った種類のファッションが誕生しつつありました。
そして、そのファッションこそが、現代のファッションの源流といえるのではないかと個人的に考えています。

次回は、もうひとつの新しいファッションである「絵画から抜け出したファッション」についてお話したいと思います。

[参考文献]
「<女らしさ>の文化史―性・モード・風俗」小倉孝誠著 中央公論新社 2006年発行

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