穏やかな日常を侵食する善意という悪意 小説「火の粉」雫井脩介著
30代の頃、知人の紹介で夫婦2人の小さな会社で働いていたことがあります。
社長であるご主人は40代半ばくらいの温厚な方で、奥様とは15歳の年齢差がありました。
奥様は当時まだ20代で、いささかギャルっぽい感じの美人さんでした。
少しの間のお手伝いだったのですが、明るい奥様のおかげで割と楽しく働くことが出来ていたように思います。
しかし、それもつかの間のことでした。
数日たつと仲良く見えていたご夫婦にはすでに取り返しのつかない亀裂が入っていることに気づいたのです。
それでも社長は仕事をしているときはなんともない顔をしているのですが、奥様は反対に不機嫌さを隠すことをしない人でした。
なので、3人しかいない狭い事務所の空気は朝からどんより。
社長が何かを頼んでも奥様は無視。
それでも話しかければ「うざい」の一言。
それがほぼ1日続きます。
そして、そのうちにイライラの矛先が私に向けられる時もあり…。
のらりくらりとかわしていたのですが、ある日、原因はほとんど社長の浮気だったと聞いてからは私も社長を憎く思いました。
とんだとばっちりを受ける身になってみろってんだ。
お手伝いの期間が終わり会社を辞めた後、聞いた話によると奥様はその後、まもなく出て行ったということでした。
私がいた数か月は一番微妙な時期だったようです。
それを知っていた知人は、本当は自分が頼まれた仕事を私に紹介したようです。
あの言いようのないプレッシャーによって受けた精神的苦痛に慰謝料を請求したいよ。
降りかかった火の粉を払ったってことだよね。
やれやれだ…
さて、今回ご紹介する小説は雫井脩介さんの「火の粉」です。
では、あらすじを簡単に
東京調布市で幼い子供を含む一家3人が殺害されるという悲惨な事件が起きます。
そして被害者宅と交友関係にあった武内真伍という男が凶悪殺人犯として起訴されました。殺人の動機も到底理解のできないものでした。
武内は被害者の一人として警察に自ら通報します。
しかし、怪しまれると途端に犯行を認めました。
ですが、裁判になると一転、犯行を全面否定した武内に、マスコミや世間は憎悪を抱きます。
この事件の裁判を担当した裁判官、梶間勲(かじまいさお)は現場に居た武内が犯人だろうと言う世論に流されることなく無罪を言い渡します。
武内の背中の傷が自作自演とは思えなかったのです。
それから2年後、梶間は裁判官を退官し、大学の教授となっています。
そしてある日、かつて無罪判決を下した武内が突然、隣家に引っ越してきました。
梶間の心にはなにか引っかかりはあるものの、当の武内は溢れんばかりの善意で梶間家の人々の心を掴んでいきます。
しかし、しばらくすると梶間家の周囲で次々と不気味な事件が起こりはじめ……。
作家情報
作者の雫井脩介さんは大学卒業後、出版社や社会保険労務士事務所などでの勤務を経て、1999年、内流 悠人(ないる ゆうと)名義で応募した『栄光一途』で第4回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞。そして2000年、同作で小説家としてデビューしました。
2016年の『望み』は2020年に堤真一さん主演で映画化されその衝撃的なストーリーが話題になりました。
「火の粉」(ひのこ)は、2003年に書下ろしで幻冬舎から刊行された小説です。
じわじわと迫りくる恐怖
この作品を知ったのは確か2時間サスペンスだったと思います。
なんとなくテレビを着けたらやっていたので観たという感じ。
ですが、巧みに家族にアプローチをかけてくる武内の得体の知れない不気味さ、
不穏な空気感に一気に引き込まれラストまで見てしまいました。
そして翌日書店に行き原作小説を買いました。
武内を演じたのは村田雄浩さんでした。はっきりと覚えています。怖かったから。
2016年には連続ドラマとして放送されました。
その時の武内はユースケ・サンタ・マリアさんでした。こちらの武内も不気味だったな。
この作品は単なるサスペンスではなく、じわじわと迫りくる不安感と恐怖感を覚える巧みな描写はもはやホラーの領域です。
少しずつ日常が侵略されていく恐ろしさにゾクッとさせられました。
行き過ぎた行為でも、善意で行われていると思うと容易く断ることはできないのだな。私も騙されそうだ。
文章に臨場感があり、登場人物の性格やその時々の感情も丁寧に描かれており、物語の世界にスッと入り込むことが出来ます。
火の粉
著者:雫井脩介
出版社:幻冬社
発行:2003年2月10日
※画像はAmazonより引用させていただきました