19世紀末の芸術に魅了されすぎたら世界が広がった☆the decadence☆ vol.27【ジブリ作品×精神分析学-前編】
皆さん、こんにちは。
皆さんは、映画鑑賞はお好きですか。
私はこのwebマガジン「Beautiful Life Design」で紹介されていた映画『ミッドナイト・イン・パリ』(2011)に興味を持ち、DVDで3度観ました。
タイム・リープ系で1920年代の芸術家がいっぱい出てくるんです。
これがまた、自分の知らない芸術家が出てくる度にネット検索しながら観ているととても楽しくて。
1920年代と言えば、私は特に当時の写真やファッションに惹かれるのですが、この映画にも出てきました。
マン・レイ[Man Ray, 1890-1976, 米出身]‼
画家、写真家、彫刻家…等々多彩な才能の持ち主です。
この《ヴェールをかぶったキキ》という写真作品を偶然目にし、マン・レイを知り、彼の写真作品を好きになりました。
映画に限らず物語は背景知識を持つことでより一層楽しめるので、できるだけ多くの知識を得たいと思っています。
実は映画についても、前回お話したフロイトを創始者とする精神分析学の観点から作品を分析することができるんですよ。
「唯美主義」と「精神分析学」
19世紀後半、オーストリアで「精神分析学」と呼ばれる心理系の学問が確立されました。その創始者が精神科医ジークムント・フロイト(1856-1939)です。
後にどんどん研究が進み、現在では精神分析学は細分化され、体系化されています。
とても興味深い学問です。
フロイトは、19世紀後半のイギリスの芸術思想のひとつである唯美主義の中心にある「美しさが何より大切!」といった考え方に対して、エエエエエエエエ??どんな思考やねん!と疑問を抱きました。
フロイトが興味を抱いたのは、美を至上の存在とする考え方の「思考回路」に対してでした。
唯美主義者のなかには、異常なまでに美に執着する芸術家もいました。
例えば、唯美主義の代表的人物のひとりであるオスカー・ワイルド。
ワイルド作の小説『ドリアン・グレイの肖像』[The Picture of Dorian Gray,1890]の中に出てくる会話で
「美がすべて!美は若さにだけ宿る。若さを失ったら何の価値もなくなる。だから、若さを失ったら自殺する‼」
という主旨の台詞が出てきます。
ある青年が放った言葉です。
正直なところ、私たち現代人、少なくとも日本人の中には男女問わずこのような考え方を持つ人がいるのは否めません。
しかしながら、『ドリアン・グレイの肖像』は、19世紀後半に描かれた小説です。
一般的には、男性には美よりも教養が求められた時代です。
もちろんフィクションとして描かれた物語ですが、小説にはその作者の考え方や経験が反映されるものです。
少なくとも、『ドリアン・グレイの肖像』にはオスカー・ワイルドの唯美主義的な考え方がてんこ盛りなんです。
教養より美が大切??
美しさというものは若さがすべて??
若さを失ったら自殺するって??
フロイトの中には存在しない「美」への執着心は、理解し難いものでした。
もっとも、フロイトが『ドリアン・グレイの肖像』を読んだのかは私には分かりませんが、美への執着心というものを研究対象としていたのなら、ひょっとしたら、フロイトは、エエエエエエエエ‼、と驚きながら読んだのかもしれませんね。
これは、唯美主義的思考の一例です。
ワイルド以外にも、唯美主義者は少なからず存在していました。
フロイトは医学的観点から、つまり、心理を探りながら、理論的に唯美主義者の思考を解明しようと試みたのですが…。
芸術は感性のかたまり、何を美しいと感じるかは人それぞれ違うものです。
理論だけですべてを解明するのは至難の業のため、フロイトを中心とする学者らは唯美主義者への興味を失いました。
意外と身近な存在!「精神分析学」
このように、精神分析学は、ある思考に対する心理を理論的に解明しようとする学問です。
実は精神分析学は、意外と身近な存在でもあるんです。
例えば、寝ている間に無意識に見る夢の内容が気になって、夢占いの検索をしたことはありませんか。
この「夢占い」もフロイトが創始者です。
精神分析学は19世紀後半当時、オーストリア国内だけでなく西洋諸国にも影響を与えました。
もちろん、イギリスにも‼
以前お話した「ヒステリー」も精神分析学と深く関連しています。
そして精神分析学は、映画や小説、ファッション、絵画、音楽…様々な芸術分野と密接な関係にあります。
さらに、私たちの日常的な意識的、または無意識的な言動や精神状態とも大いに関係しています。
つまり、世の中の様々な現象は、人間の心理との関わり合いを理論的に紐解く精神分析学という切り口からも分析できる、ということです。
映画においても、そのキャラクター自体や、キャラクターの言動を精神分析学の観点から分析することができます。
この記事を執筆している現在(2020/08/18)、全国の映画館でスタジオジブリ4作品『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ゲド戦記』が上映されています。
そこで今回は、ジブリ作品を精神分析学の観点からみるとどのように読み解くことができるのかを、私が大学院で学んだ分析を交え書かせていただきました。
『魔女の宅急便(1989)』を例にとって、私たちにとても身近な「言葉」をキーワードにお話したいと思います。
『魔女の宅急便』と「言葉」
宮崎駿監督作品の『魔女の宅急便(1989年公開)』では、言葉を通じて、キキが成長していく物語が展開されます。
主人公のキキは、生まれ育った魔女の世界では血縁者もいます。
そして周囲の人々は皆、キキを知っていて優しく見守ってくれます。
純粋なキキのわがままも受け入れてもらえ、自分が中心の世界、つまり「純真無垢な赤ん坊のような存在」として描かれています。
キキが旅立った新しい世界では、それまでの常識が通じません。
珍しい姿をしたキキは最初、街の人たちからしたら常識外れの行動をしますから、見知らぬ周囲の人々からあれこれ言われてしまいます。
しかし、彼らが何を言っているのかキキには理解できません。
キキが飛び込んだ新しい世界では、「言葉」による他者とのコミュニケーションや、犯罪を規制するための法律からマナーまで、対人関係を円滑にするための規則である社会的ルールを守るよう警察が監視しています。
生まれ育った世界のように、キキが中心にいて、周りの皆がキキをまるで赤ん坊を扱うかのように寄り添ってくれる、といった常識は新しい世界では存在しません。
新しい世界で暮らしていくためには、「言葉を理解し言葉で伝える」といった、「言葉を使った意思疎通」でのやりとりが必要となります。
物語後半、空を飛ぶという魔法の力が徐々に弱まり、キキはやがて飛ぶことができなくなります。
ここにも言葉との関連性がみられます。
ひとつは、キキが、宅配の仕事の最中に出会ったキキにとっての「新しい世界」のシーンにあります。
あるとき、孫娘にパイを届けるようおばあさんから頼まれ届けに行ったキキは、孫娘に「これ嫌いなのよね」と言われたことに大きなショックを受けます。
人間界に降り立ったキキは、偶然の縁で知り合ったパン屋さんで、住み込みで仕事を始めました。
魔法の力を使って、ほうきで空を飛びながらお店の商品を宅配する、というのがキキに与えられた仕事でした。
魔女の世界では「赤ん坊的存在」、つまり自分対他者という2者の関係性だけで成り立っていました。
パイを届けたキキは、孫娘と祖母という2者の間に挟まれ、第3者であるキキに対して、孫娘が「おばあさんの好意を踏みにじる発言をした」という状況が理解できませんでした。
少なくとも魔女の世界では、常に与えられる側にいたキキには、おばあさんが孫娘に対してニシンのパイを与えたことに対して、孫がその好意を無駄にしたとしか思えなかったのです。孫娘からしたらありがた迷惑が何年も続いていてストレスだったのだろう、という視点が、キキのなかにはありませんでした。
さらに孫娘が、おばあさんの好意に対する気持ちを、直接的な関り合いを持たないキキに対して言葉にしたという行動それ自体が、キキには理解し難いものでした。
私たちのなかに、当たり前のように存在する「第3者」という存在そのものが、キキのなかにはなかったのです!
ふたつめは、新しい世界で「怒り」や「嫉妬」のような複雑な感情を初めて経験したことです。
新しい世界で出会った少年トンボと一緒に乗っていた自転車が壊れてしまったシーンで、トンボの友人たちが自動車で通りかかり、トンボに「飛行船を見に行こう」と声をかけます。
その時、キキは、友人の中に自分がパイを届けた孫娘がいることに気付きます。
トンボはキキも誘いますが、キキは怒って帰ってしまいました。
家に帰ったキキは、落ち込みます。
キキはパイを届けた時以上に、複雑に絡み合った人間関係の中で、今度は「理解できない」ではなく「怒り」やもやもやした気持ちを経験します。
このように、複数の他人との関りを経験する中で、キキは今まで感じたことのなかったマイナスな感情を、言葉を通して経験し、新しい世界で徐々に成長していきました。
言葉を媒体とした経験を着実に積んでいくキキは、次第に親から授かった「魔法の力」を失っていきます。
いつもキキの傍らにいて、キキと会話ができるネコのジジは、キキの分身的存在です。
ちょっとひねくれたジジの言動は、キキの心の声、つまりキキの嫌な部分を代行してくれる存在ですが、新しい世界で暮らす中でジジの言葉が分からなくなります。
これはキキの成長のひとつです。
キキ自身が自分の心の声を受け入れるようになったため、代行であるジジの存在の必要がなくなったのです。
このような経験に始まり、多くの他人との「言葉」を通した関わり合いの中でキキは成長していきます。
『魔女の宅急便』と「主題歌」
『魔女の宅急便』といえば主題歌も映画と合っていて、映画全体がよりステキなものになっていますね。
オープニング曲は『ルージュの伝言』(1975)、エンディング曲は『やさしさに包まれたなら』(1974)と、どちらも荒井(松任谷)由実さんの曲ですが、この選曲には物語と深い関係性があります。
『ルージュの伝言』は生まれ育った世界にいるキキを。
『やさしさに包まれたなら』は新しい世界で成長していくキキを象徴しています。
『ルージュの伝言』では、自分の恋人が浮気をしていることを恋人の母親に伝えにいこうとするストーリーが描かれています。
恋人の母親に伝えれば、恋人を叱ってもらえる。
自分ではなく、おそらく自分の味方になってくれるであろう人、しかも恋人にとって浮気をいちばん知られたくないであろう身内に叱ってもらう、って無邪気なのか保身なのか、ちょっとずるいですね。
このストーリーは、キキが、生まれ育った世界では何もかもが自分の思い通りにいく、皆が味方になってくれるといった状況と重なります。
『やさしさに包まれたなら』の歌詞の冒頭部分
<小さい頃は 神様がいて 不思議に夢を かなえてくれた>
これは、キキが生まれ育った世界で「赤ん坊」のような存在でいられたことと重なります。
その後のフレーズ
<やさしい気持ちで 目覚めた朝は 大人になっても 奇蹟は起こるよ>
<…やさしさに包まれたなら きっと 目に写る全てのことは メッセージ>
ここでは、キキが成長し大人になっていく過程で、「言葉=メッセージ」を通して人間関係を構築していく姿と重なります。
歌詞に<大人になって「も」>とあるように、小さい頃とは違ったやり方、つまり「言葉」によって、他人ではなく自分の力で「奇蹟=願いを実現していくことができる=キキ」が、新しい世界でも楽しくやっていける、という状況が目に浮かびます。
曲の制作年からも分かるように、これらの主題歌は『魔女の宅急便』のために創られたのではなく、それ以前から存在していて、宮崎駿監督がセレクトしました。
それなのに映画にぴったりハマっているなんて、なんだかスゴいなあ。
もちろん、宮崎駿監督作品のBGMを毎回手掛ける作曲家の久石譲さんも素晴らしすぎます!
宮崎駿監督は多くの人によって考察されており、宮崎駿監督自身の言葉以外に関しては、これが正しいという正解はありません。
今回は私が大学院の授業で学んだことを中心に、自分の考えを交えながら書かせていただきました。
次回もジブリ作品と精神分析学についてもう少しお話したいと思います。
歌詞引用元【やさしさに包まれたなら】
レーベル:EXPRESS
発売日:1974年4月20日
作詞・作曲:荒井(松任谷)由美